歌舞伎に、舞踊に、ドラマ、映画にと、幅広いジャンルで活躍を続けている歌舞伎役者の坂東三津五郎さん。念願の大山阿夫利神社への歌舞伎舞踊「山帰り」奉納を目前にした三津五郎さんに、歌舞伎役者と舞踊家元を兼ねられる坂東家のこと、節目の舞台のことなど、お話を伺いました。
――まず、歌舞伎と坂東流歌舞伎舞踊(坂東家)との関係からお話し頂けますでしょうか。

早稲田大学演劇博物館所蔵(*)
坂東流は江戸時代の三代目三津五郎を流祖としていますが、当時は、お狂言師が大きな勢力を持っていました。狂言といっても、能・狂言の狂言ということではなく、普段なかなかお芝居を観にこられない大名家の奥向きの方々に、踊りをお教えする女性の芸人が演ずる歌舞伎芝居のことです。
現代の歌舞伎は、慶安5年 (1652) 以降行われるようになった野郎歌舞伎の流れを汲んでおり、男性役も女性役も、すべて男優が演じます。
それとは全く反対に女性が男の役をやり女の役もやり、「こういうことが今流行ってますよ」ということをお見せしたりしてたらしいですね。
――坂東家に生まれて、跡を継ぐことへの疑問とか、何か別の事をやりたいと思われたことなどはなかったのでしょうか?
私の場合はありません。子どものころから、歌舞伎が好きで好きでたまりませんでした。
六歳で五代目坂東八十助という名前を襲名いたしまして、44歳まで38年間八十助を名乗ってきました。その間、将来十代目三津五郎になるという歌舞伎役者の修業と、家元になる舞踊の修業とを同時にずっとやってきたということでございます。
私と同じような環境に生まれてこられた歌舞伎役者の中には、小さい時、ウルトラマンや遊園地、スポーツのほうが楽しく思ったり、自分はなんでこうやって進路が決まっちゃってるんだろうと悩んだりする人もいると思いますが、私は、遊園地よりも芝居に連れてってもらったほうがうれしいと思うそんな子どもでした。
――子ども心に、お稽古をどのように感じておられましたか?
例えば10月に歌舞伎座でこの役をやるっていうはっきりとした目標がある時は稽古にも身が入るんですが、いわゆる目標がない日々の鍛錬。これはね、やっぱり面倒くさかったですね。
――面倒くさい日々のお稽古を乗り越えてこられたのは、舞台という目標があったからなんですね。
そうですね。あと、たまたま同学年に歌舞伎役者の仲間が四人いました。そのうちの一人が今の勘三郎さん、それから時蔵さん、それから今の芝雀さんです。それぞれみんな頑張りましたし、ことに勘三郎さんは子役時代から先頭に立っていましたから、怠けてると置いてかれちゃうんで、同年輩には負けたくない、離されたくないっていう気持ちがありました。
人間は弱いですから、右見て左見て、「あ、みんなも休んでるな」と思ったら多分休んじゃうと思うんですよ。楽なほうがいいですから。でも、僕が幸せだったのは右見て左見た時に、仲間が前を走ってるから怠けずにこられた。だから仲間がいてくれてほんとによかったなって思います。それともう一つは、曾祖父にあたる七代目三津五郎から期待されていたということが支えになって、今までやってこられたと思います。
――曾おじい様にあたられる七代目三津五郎のことは覚えていらっしゃいますか?
覚えています。うちの父も祖父も養子でございまして、ずっと男の子が生まれなかったんですね。それで僕が生まれた時にその七代目三津五郎って人が大変喜んで、オシメもとれていない一歳の時に無理やり僕を抱いて舞台に出るくらいでしたが、その翌年に病気で倒れてしまいました。
僕が三つくらいになって、父と母が「そろそろ稽古に出しましょうか」と言ったら、踊りの名人と呼ばれた曾祖父が「いかん!この子は大事な子宝、変なところに稽古にやって変な癖がつくといけないから、私が必ず元気になって自分で稽古をつけるからそれまでは稽古に行かせては駄目です。」と言ったらしいんですよ。僕が五歳の時に亡くなったので実際は稽古をつけてもらったことはないんですが、やっぱりそれだけの名人にそこまで期待をされていたということは、怠けてもし下手糞だったら申し訳ない。なんとか、期待に応えなきゃと思うんです。ことに死んだ人ですから、怠けられないんですよねぇ。隠れられないですから。どこで見てるかわからないので。
――実際に稽古をつけてくれたのはお父様ですか?

そうですね、身体の基礎みたいなのは全部父が教えてくれました。精神的には母の影響も大きいです。女だから歌舞伎役者にはなれないので、自分が養子を貰って、ようやく男の子を生んで「こいつを絶対一人前にさせるぞ」みたいな母の執念ですかね。
あんまり大きな声で言うと怒られちゃうかもしれないですけど…歌舞伎役者って男ばかりで、父が師匠でっていうふうに表面的に見えるけど、よく見るとお母さんの執念が勝ったところの子どもがみんないい役者になってますね(笑)。
――歌舞伎役者を目指されてきて、挫折しそうになったり、ブランクがあったりということはありませんか?
あんまりひどいのはないですね。自分で言うのもなんですけど、僕は優等生でした。いわゆる失敗の少ない男。ただ、「ある意味なんでもできて優等生なんだけど、華がない」みたいに言われた事はあります。
でも、僕は非常に運がいいというか、そういう時期にNHKの「おていちゃん」というドラマに出演し、たまたまそれがヒットして、皆さんに顔を覚えていただいて、そのあとはいい役が廻ってくるようになったりとか…何かに守られているように思いますね。挫折というのは、申し訳ないくらいないかもしれないですね。
――挫折知らずということですが、節目だったと思われる舞台はございますか?
先ほども言いましたが、僕は優等生で、結構器用になんでもこなすタイプだったんです。でも、柄はそんなに大きくないし、線もそんなに太いほうじゃないんで、どっちかっていえば二枚目系統の役者になるのかなって思っていました。
そんなときに、歌舞伎十八番ものの線の太い役である「鳴神(なるかみ)」を薦められました。小柄で器用な僕には合わないって言ったんですが、どうしても演れと言われて…。そのとき、断ったのにどうしても演れっていうんだから、失敗しても自分の責任じゃない、薦めた人が悪い、っていうくらいの気楽さで演ったら、これがすごく当ったんです。
その後は現代劇で「獅子を飼う」の秀吉。自分がまだ三十五、六の時に、もう白髪の関白、秀吉を演るという冒険をしたら、またそれが評判になった。
守りの姿勢じゃなかった、つまり点を取ろうとしなかったというのが逆によかった。今までそこには扉がないと思ってた、線の太い役柄の「勧進帳」の弁慶だとか、そういう自分の中の可能性が広がっていったんですね。昨年、立ち役の僕が女形の大曲「道成寺」の花子を演らしていただいたこともそうです。
自分で望むものよりも、自分が「え?これ?どうしよう」って思ったときのほうが成長するし、得るものも大きいと思いました。「一歩間違えば大失敗か」っていうところで、逆にそれをうまく自分の力に変えられたのは運がよかったですね。
――節目と言うと、今月には、長年の念願だった大山阿夫利神社への「山帰り」奉納を実現されますね。地元の関係者の方から、所縁の地、時代の文化風俗の再認識と、非常に盛り上がりをみせているとお聞きしました。

歌舞伎舞踊「山帰り」は、江戸時代の名優三代目坂東三津五郎初演に始まり、現在の私に至るまで、代々受け継がれてきた坂東流のお家芸ともいる大事な踊りです。けれど、大山にきわめて所縁の深い演目でありながら、これまで阿夫利神社に舞踊奉納はありませんでした。
十代目襲名にあたり、今まで受け継ぐことができたことをご神徳と捉え、感謝を込めて、「山帰り」舞踊奉納を一つの目標として、実現を長く祈念しておりましたが、この度、阿夫利神社の快諾を得て、奉納舞踊実現の運びとなりました。大山はじめ所縁の地の振興にいささかなりとも、お役に立れば、これに勝る喜びはないと考えております。
(*)早稲田大学演劇博物館所蔵(無断転載禁止)
資料名:大山参り 坂東三津五郎
資料番号:101-6803
三津五郎さんのインタビュー(後編)では、人歌舞伎役者、坂東流家元として、斯界の中心的存在になられた三津五郎さんに、文化継承という面から見た歌舞伎、舞踊の現在と未来のことについて、お話をお伺いします。
by ニフティ「想い伝え隊」横田、宮坂
オフィシャルサイトの紹介
●坂東三津五郎公式ホームページ
http://www.kabuki.ne.jp/mitsugoro/
●日本舞踊 坂東流公式ホームページ
http://www.bando-ryu.jp/
●山帰り奉納/オフィシャルサイト
http://www.yamagaeri.com/
●山帰り奉納/公式ブログ
http://yamagaeri.cocolog-nifty.com/
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コメント
三津五郎さんの素顔を拝見できて、ファンとしてとても嬉しく思いました!
歌舞伎の家にお生まれになって、きっと普通では考えられないような大変なこともいろいろおありになったことと思います。でも、それをすべて前向きに捉えられて、「何かに守られているよう」とおっしゃられる三津五郎さん、とてもすばらしいと感じました。
素敵なインタビューをありがとうございます。後編も楽しみにしております。
投稿: 歌舞伎ファン | 2009年9月11日 (金) 14時53分