ユニバーサル・デザインの専門家として、また障害を持つ当事者として、誰にでも使いやすく、安全なまちづくりの提案をされている一級建築士/川内美彦さん。障害を持った人もいるということが当たり前のように受け入れられる世の中になることが重要という信念をお持ちの川内さんにお話をお伺いしました。
――現在、自治体や国の設計基準作りに携わられていらっしゃいますが、これまでのいきさつについて教えてください。
今、こうやって、設計基準作りなどに関わっているきっかけは、19歳の時のけがと、1989~90年にかけてアメリカに行ったことでしょうか。
私は、19歳の時にスポーツ事故のため首の骨を折り脊髄を損傷、両足と両手が不自由となりました。右手は握ることができません。左手も麻痺とか筋力低下があります。けがをしたのは、国立の工業高等専門学校の5年生になったばかりの頃です。
――両足が不自由になられたということは車いすでの生活ですよね。日常生活や学校はどうされていましたか。

事故のあと、1年半入院、その後の半年は療養です。退院後、車いすに1時間座ると、その日1日は寝込んでしまうというくらい体力もありませんでした。
学校の方は、ある先生から「とにかく復学しろ!復学して卒業しろ!!」と強く勧められ、2年の療養生活のあと復学しました。学校に通えない状況だったのですが、先生が文部省(当時)に交渉し、通信教育みたいな形で履修、レポートを提出するやり方で卒業できました。卒業したのが22歳です。
――卒業後の進路は?
車いすでの生活で体力もない。自分自身、何にもできないだろうとやる気が全く起こらなかったのですが、復学を勧めてくれた先生が、今度は二級建築士の資格をとるように強く勧めてくださいました。工業高等専門学校を卒業すると二級建築士の受験資格があります。卒業した年の夏に二級建築士を受験、資格を取得しましたが、就職口はありません。先生からは事務所を開けとアドバイスされ、自分で自分を雇うしかないと思って設計事務所を開きました。今思うと、プロとして図面を描いたこともない人間が設計事務所を開いて仕事を始めるなんてひどい話ですが、そんなこんなで細々と仕事を続け、5年後には1級建築士の資格を取得しました。
――身体上の「障害」は建築士資格の受験には影響はありませんでしたか。

私に復学や仕事を勧めてくれた先生が試験委員で、試験会場の席は、車いすに配慮して1階の一番出入りしやすい場所にしていただいたり、体温調節ができない私のために試験会場内に体を冷やす道具の持ち込みを許可していただくなどの配慮はありましたが、車いすで使えるトイレはありませんでしたから、真夏に水も飲めない受験でした。しかし、先生がそんな下ごしらえをしてくださっているので、落ちるわけにはいかないという心境でしたね。
そもそも「障害」というのは、社会参加が難しい人たちのために最低限の生活保障や支援サービスを検討した時に生まれた概念だといわれています。誰を対象にして、どの程度の人にどういった支援をするかを決めるためのカテゴリー分けが必要で、「障害」という概念が生まれました。その「障害」という概念が逆手にとられて、一部の試験では受験の制限が行われていることは残念なことです。私の場合は、そういったトラブルが全然なくて、受験時に必要な配慮をしていただき、あとは全く他の人と同等の状態で受験しました。
――ご自身の設計事務所で、「障害」を持つ当事者として活動されていたということですが、具体的にはどんなことをされていましたか?
30歳くらいから、地元(広島)の社会福祉協議会といっしょに小中学校をまわって、障害について話をする講座をやっていました。「障害のある人には手助けしましょう」という風潮が当時もありましたが、自分の中では、障害があるからといってサービスを受ける側だけでいいのかという疑問がずっとありました。自分でできるサービスはこちら側から提供してもいいんじゃないかという発想で、つながりのあった社会福祉協議会といっしょに、自分から発信する活動をしていました。
――その頃から、今のお仕事の基盤が見え始めていたということですね。もうひとつの転機がアメリカ行きと伺いましたが、1989年にアメリカに行かれたきっかけについて教えてください。

ある時、社会福祉協議会の知り合いの方から「アメリカに行かない?」という電話がかかってきました。障害のある方々数名をアメリカに留学させてくれるという制度を紹介してくれました。選ばれた留学生は自分で決めたテーマについてアメリカで勉強し、レポートを提出します。この制度は、ある企業が1981年の国際障害者年を記念し作ったもので、1981年から10年間実施されました。私がアメリカに行ったのは、1989~90年です。
――それまでの環境をがらりと変えてアメリカへ行くことに不安はありませんでしたか?
もちろんありました。設計事務所もそこそこ動いていたので、この状態で半年アメリカに行ったら、帰国後は仕事がなくなるのでは?と不安でした。すごく迷って、高専の先生に相談したら「とにかく行け!!!」と言われ、アメリカ行きを決心しました。荷物をまとめ、アメリカに行く直前、先生が事故で亡くなられてしまったので、その言葉は遺言みたいになりました。けが、アメリカ行きと人生の転機はいろいろありますが、その節目節目であの先生がいらっしゃらなかったら、私は全然違った人生を送っていたと思います。
「障害」というのは、社会が生み出した概念であると話される川内さん。後編では、アメリカと日本で「障害」という概念がどう違うか?すべての人にとって、より使いやすい社会環境を実現するための取り組みである「ユニバーサル・デザイン」はどうあるべきかなどについてお話をお伺いします。
by ニフティ「想い伝え隊」宮坂
書籍の紹介
川内美彦さんの著書を紹介いたします。
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ユニバーサル・デザインの仕組みをつくる スパイラルアップを実現するために |
税込価格:2,310円(税込) |
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ユニバーサル・デザイン バリアフリーへの問いかけ |
税込価格:2,100円(税込) |
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バリア・フル・ニッポン 障害を持つアクセス専門家が見たまちづくり |
税込価格:2,100円(税込) |
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コメント
週刊ニフティから先生のブログにたどり着きました。
私は小さいときから両松葉づえ、滑りやすいところでは車いすという状態で、現在富山で3年前から設計事務所を開いています。(2級建築士ですが、2級建築士の資格を貰ってからはや、30年になります)
また、富山の障壁を考える会という障害者問題やALSの方のためのポランティア団体で福祉機器の作成に携わっています。
私のことばかり書きましたが、先生のような方が建築業界に大学においでになるということは、若いこれから社会を担っていく障害者にとって心強いよりどころとなると思います。
たぶん、先生を目標にがんばっている障害者の若い方々がたくさんおいでになるでしょうね。
私はもう57歳、若い時には、大学の門も叩きましたが、途中で挫折しました。(また再び機会があれば大学の門をたたきたいとは思っていますが・・・)
先生の事を知らなかったのは私だけかもしれませんが(申し訳ありません)、多くの障害者の方々のため、これからもどうか、がんばってください。
障害者の方々のために良き仕事を、これからもどんどんされることをお祈りしています。
投稿: 山本 典弘 | 2009年8月18日 (火) 06時48分